与那原町の体験型観光産業の推進に積極的取り組む町民ネットワークサイトです

町歩き

観光文化ガイド部会

観光文化ガイド部会

『観光客がほとんど行かない(秘)な町』町発行のガイドブックの表紙に載っているフレーズです。言い得ていて悔しく思いました。が、その狙いは「知られていない多くの観光資源がある与那原町に観光客に来て欲しい(思いが込められている)」!とのことでは。

参加して歩くと見所満載。

コースをキーワードで紹介しましょう。「御殿山」「聞得大君」「天女」「漂流」「子宝」…期待はけっして裏切りません。あなたも参加してみては。

まち歩き絶賛出発中!

まちあるき地図

まちあるき地図

地図をクリックすると拡大図がでます。

親川

参考写真

天地開闢の昔、御殿山に天降りした天女が、その御子の出産にあたり、産湯を召したとの神話に発し、琉球王朝時代には国王の久高参詣の東御廻りや聞得大君の御新下りの際、「お水撫」の儀式を行うなど、首里出発後、休憩の御用水を献じた所と伝えられている。

御殿山

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名前の由来は、山原から首里の御殿に納める木材の置き場に指定されていたことによる。“おもろさうし”では、「よなははま きこえ 大きみ やちよ かけて と よまさに 又あきりくち とよむ 大きみ やちよ」とうたわれている。

『球陽・遺老伝説』に「漂流の大君加那志」として由来があり、戦前は立派なお宮に尚家の人々がお参りしていたといわれている。

聞得大君の御新下りの際には最初の休息地となり御仮屋が設けられた場所である。現在でも町の行事や東御廻りのコースにもなっている。

宋之増

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与那原発祥の門家を祭った神屋。そうぬましは宗之増とも竿之増とも書くが、神屋には宋之増と記されている。

元々、上与那原に住んでいたが、毎日のように海岸を眺めているとある事に気がついた。そして遠浅の海岸に竿を立て始めた。何日も何日も竿をを立てて仕切り土砂をいれていき暫くすると立派な平地が出来た。そこに居を移し、村建てしたと伝えられている。

阿知利世主

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阿知利世主は、阿知利毛(現在の町営阿知利団地付近)に居を構えた実力者で、宋之増一族の協力者であったと考えられている。

久場塘

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羽衣伝説にまつわる拝所で、南風原間切宮城村の御宿川に舞い降りた天女が、天界に帰ろうと逃げ隠れた所で、宮城部落の人々によって碑が建てられ、拝まれている。

現在でも南風原の町有地になっている。

久葉堂

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“聞得大君加那志”は、薩摩の国から無事帰還したが、彼の地で既に懐妊しており、王府からの招きを快しとせず、隠れているのを見つかった場所とされている。後に、“三津武嶽”への遥拝所として尊ばれている。(下記、“三津武嶽”参照)

ここには、もう一つの伝説があります。

与原区発祥の頃、移住してきた人々が屋取し与原の島を形成し始めた頃、運玉山の一角が土砂崩れをし、麓の数件の民家と住民が生き埋めに遭った。部落の人々がその霊を弔う為、与那原海岸に流れ着いた奇石を拾い、ご神体とした。その後、与原の「守り神」となった。

三津武嶽

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聞得大君が、琉球発祥の地、久高島に参詣される途中に強い逆風に遭い、薩摩の国に漂流し、一命をとりとめることが出来、無事帰還するが、その時、既に彼の地で懐妊しており、王府からの招きを快しとせず、与那原海岸の御殿山に庵を結んで一生を終えた。

聞得大君が死後、葬られたと言われる場所であると遺老説伝の伝わる所である。 現在は子宝の神として子宝を望む人のお参りが絶えない。

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